“廃プラ”のイメージを一新、赤字会社を3年で黒字に。

語り:代表取締役会長 新城俊男

 

大企業から中小企業への転身

私はかつて広告代理店の電通に勤務していました。ところがある日、妻の父親から仕事を手伝ってくれないかという話を持ちかけられます。安定した大企業を辞めて中小企業に移るというのは勇気の要る決断でしたが、意外とすんなり決めることができました。というのは、私のなかにモノづくりへの興味があったからだと思います。

 

広告代理店ではマーケティングを担当していたのですが、自分の仕事がどういう成果を生んだかについてはなかなか見えにくいものです。だから、さわれるモノ、形のあるモノにあこがれたのかもしれません。子どもの頃からモノを作ることは大好きでしたからね。

 

私がマーケティングの経験から学んだのは、中途半端な商品企画は絶対にダメだということ。例えばテレビの草創期を振り返ると、最初の頃のテレビはボディにマホガニーなどを使って高級路線を志向しました。しかし普及するにつれて大衆路線の安い製品が主流になります。かといって高級路線の製品がなくなるわけではありません。マーケットは必ず二極化していき、中途半端なポジショニングの商品は消えていきます。弊社に入社してからも、マーケティングで学んだことは役立ってきたと思います。

 

 

3年間で黒字にしろ!

入社して最初は鉄の部署で1年間仕事を覚え、その後営業に従事し、2年経ったところで子会社である第二工場に行って責任者になれと言われました。そこで出会ったのがプラスチックです。しかし、来てみると経営状態は潰れる寸前といっても過言ではない状態でした。

 

先代からは「3年で黒字にしろ。ダメだったら会社をたたんで帰ってこい」と言われました。冷や汗が出ましたね。私はダメだったら親会社に帰れるけれど、社員は帰るところがありません。そのまま路頭に迷わせることになります。これは大変だと、そこから必死の3年間がはじまりました。

 

私が最初にぶつかったのは「廃プラ品」という言葉の壁でした。本来ならばリサイクル品と呼ばれるべきものが、廃棄プラスチック、略して廃プラと呼ばれていました。作った商品は新品であるにもかかわらず、「たかが廃プラ」という意識がお客様にも従業員にも染みついていました。しかも業界を見るとせまいマーケットでたたき合いの世界。どう考えてもコスト的に合いません。そこで私は「違う路線に進むしか生き残る道はない」と考えました。

 

その後、私たちは高品質路線を選択し、高単価をめざして営業活動に取り組みました。私はまず社員に「廃プラ」という言葉を使うことを禁止しました。後に聞いた話では「業界のことを知らない若造が馬鹿なことをやっているがすぐに尻尾を巻いて逃げ帰るだろう」と言われていたそうです(笑)。

 

もうひとつの壁はリサイクルプラスチックにマーケットがないことでした。当時あったのは測量や工事に使うクイぐらいのものです。しかし「たかが廃プラ」で作っている製品は曲がったとか折れたとかトラブルが起きがちで、そういう時にお客様が弊社に飛び込んできました。弊社では良い製品が手に入るわけですが、正直言って値段は高い。でも使えないよりはいいから売れる。そういう風にして少しずつマーケットを広げていきました。

 

 

ダイプラストウッド誕生

私たちが恵まれていたのは、関連会社に電線解体の会社があったことです。不要になった電線から銅を回収するのですが、外側はプラスチックです。当時はこれを大量に捨てていました。それを何とか商品化できないかという発想からダイプラストウッドが生まれました。これは先代が端緒をつけたのですが、私が送り込まれてから本格的に開発した製品です。

 

ダイプラスウッドがお客さまに支持される点は、大きな製品が作れること、強度があること、品質が高いことです。また弊社は企業として組織化しているので、納期が正確です。金型を複数持つことで製造のスピードを上げるなどの工夫もしています。

 

鉄は重厚長大でプラスチックは軽薄短小のイメージがありますが、実はプラスチックの大型製品は重厚長大といえます。しかも作るのが非常に難しい。例えば300角のような大きな製品で高品質なものを作るのは弊社の独壇場だと思います。これが認知されていけば意外なところからお客さまのオファーが舞い込むのではないかと考えています。

 

ダイプラスウッドの誕生には興味深いエピソードがあります。普通こうした素材では「強度のあるものをどうやって作るか」というスタンスで開発に臨みます。ところが弊社の場合は最初に作ったものが偶然強かった。そして偶然出来てしまったがゆえに、なぜ強いか理由がわからなかったのです。そのせいで時には弱いものを作ってクレーム対象になってしまったこともありました。そこで、なぜ強いのか、なぜそれがいつも出来ないのか、というところから研究を進めた結果、ようやく原因が解明できました。それを後追いする形で工場設備や金型の整備を進めたのです。今では、最初に強いものが出来てしまい苦労したという笑い話になっています。

 

 

安定的に黒字を計上できるようにして次世代に継承

私が引き受けた当時の経営状態は債務超過どころではなく、累積債務が資本金の倍以上あるような会社でした。それを何とか3年で単年度黒字にしましたが、その後も山あり谷ありで、コンスタントに黒字を計上できるようになったのは平成10年頃のことです。ダイプラスウッドのおかげで累積債務に苦しみながらも何とか黒字を計上できる会社になったのです。

 

私は「自分で値段が決められない商売をやっても仕方がない」と考えています。もちろん顧客のニーズや需要と供給の関係というのはありますが、絶対に安売りはしません。適正価格を維持するのが大前提です。ダイプラスウッドや他の製品も品質で勝負して売れているのです。以前は使えるモノが捨てられていることが悔しかった。いまリサイクルは花形産業のようにいわれるようになり、弊社も経済産業省から賞をもらったりしていますが、原点は「もったいない」という気持ちでした。よくここまで来たものだと思います。

 

私は経営者としてまだまだ仕事が出来ると思っていますが、それでも息子が40歳になったら会社を譲ろうと考えていました。私が先代から経営を引き継いだのは48歳のことで、それでは少し遅い気がしたからです。あと2年で50歳、そこから新しい事業を考え、自分で最後まで面倒見られるでしょうか。経営者というのは年齢とともに情報力が落ちてきます。だんだん自分で動かなくなるせいでしょうか。私はそれを見越して次世代に継承することを決めました。皆様にはこれからの第一パイプ工業株式会社を楽しみにしていただきたいと思います。

 

 

 

 

新しい発想でマーケットを拡大し、売上向上をめざす。

語り:代表取締役社長 新城将英

p-1平成26年10月、代表取締役社長に就任しました新城将英です。皆様にはお引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。

 

私には弟がおり、弟は私が会社を継ぐと思っていたようですが、私は「それはわからない」と思っていました。会社のためにベターな選択をするのであれば、弟だろうと、外部から人を呼ぼうと、それについては社長(現会長)におまかせするべきだと考えていたのです。とはいっても社長をやれと言われたときに待ってくれというのはまずいですから、私であろうが弟であろうが、いつでも社長を引き受けられる意識だけは持っていようと考えていました。

 

私は31歳まで他の業界でいくつかの仕事をしてきましたが、この会社のことがずっと頭の片隅にあったような気がします。仮に自分が80歳まで生きるとしたら、40歳で半分。残りの半分はみなさまへの恩返しということで事業を継ぐべきだろうという考えもありました。

 

弊社が取り扱う再生プラスチックは奥深い世界で、まだまだ学ぶべきことが多々あると思っています。私が入社したときは鉄から経験を積みました。鉄が売上の8割を占めていますので、どうしてもそちらが主になります。鉄は販売もさることながら、原価率の非常に高い商品で、仕入も重要になります。原価を抑えたものをどれだけ早く入れて、どれだけ早く商品にするかというのが大事です。それをしっかり身につけるとともに、品質についても理解を深めました。

 

プラスチックについては会長という生き字引がおりますし、経験豊かなスタッフが揃っています。いろいろと教えてもらいながら、これまで片足突っ込んでいたところを両足突っ込む気持ちで取り組めるようになりました。現状を把握し、営業とともにお客さまの声を聞かせていただき、そこからようやく見えてきたものがあり、これからは積極的に展開していく段階だと考えています。

 

私の抱負は、現在捨てられているような素材を活かして新製品を開発し、それによってマーケットを拡大し、売上向上につなげていくことです。アイデアを出して、モノが形になっていくのは楽しいですし、再生プラスチックの場合はお客さまとの交渉もありますが、基本的に自分たちで値段が決められます。リサイクル産業として将来有望でやりがいのある事業だと考えています。弊社の今後にご期待いただくとともに、ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。